当ブログでも紹介記事を書いてきた”ナナニジ”こと22/7。彼女たちの4thシングル『何もしてあげられない』が2019年8月21日に発売となりました。発売週のオリコンウィークリーチャートでは、グループ最高位である4位を獲得。完全新曲である5曲はそれぞれ個性的で、聴き応えのあるEPシングルとなっています。
この記事ではそんな4thシングル楽曲の中から『とんぼの気持ち』と『君はMoon』について、主に歌詞に着目して書いていきます。その際に軸とするのが『大人』に対する向き合い方です。
22/7の楽曲において、『大人』や『子供』という言葉は非常に重要な意味を持っていると私は考えています。中でも『大人』はサイレントマジョリティの象徴として、個や憧れを捨て、無難な道に進んだ存在として描かれてきたように思います。
『大人』の対極にあるのは、何のしがらみもなく夢を描ける『子供』だと言えるでしょう。そして両者の中間に広がるのが『思春期』(=モラトリアム)であり、そこで揺れ動く心情こそが22/7というアイドルが描く領域である……こうした22/7観、アイドル観がこの記事の下敷きとなっています。
とんぼの気持ち
モラトリアムを生きる《僕》
最初に取り上げるのは、初回限定盤Type-A収録の『とんぼの気持ち』です。
楽曲の主体である《僕》は、学校を卒業して既に社会に出ていることから、世間一般で言うところの『大人』であると読み取れます。一方で《僕》は、《自分にとって大人は天敵だ》という主張を持っています。
《僕》は外面・立場的には『大人』であっても、その内面では『大人』への強い抵抗があり、『思春期』(モラトリアム)の段階にあると言えます。『大人』になる準備が出来ず、これという目標も持たないまま社会に放り出されてしまった《僕》は、その心情をとんぼの姿に重ねる訳です。
「とんぼ返り」という言葉にも表れるように、とんぼは飛ぶときに同じところを行ったり来たりする性質があります。その姿は、目的地を見出せず優柔不断にふらふらと飛んでいるようにも映り、《僕》が自身を投影する対象として非常にマッチしているのです。
不完全変態と蛹
昆虫には【幼虫 ⇒ 蛹(さなぎ) ⇒ 成虫】という成長段階がありますが、これは人間でいう【子供 ⇒ 思春期 ⇒ 大人】という成長段階に重ねる試みが可能です。
とんぼは三段階における【成虫】であり、《僕》は(不本意ながらも)【大人】であることから対応関係にあります。一方で、外面は【大人】であっても、内面が【大人】になりきれていないのが《僕》でした。とんぼの内面についてはどうでしょうか。ここでキーワードとなるのが『不完全変態』です。
楽曲の歌詞には、《蛹のまま僕は暮らしたいよ》という一節があります。昆虫の【蛹】に対応するのは人間の【思春期】(=モラトリアム)です。
しかし実は、とんぼにはこの蛹の時期がありません。とんぼは『不完全変態』の昆虫であり、【幼虫】にあたるヤゴから、【成虫】であるとんぼへと、【蛹】の時期を経ることなく変態します。【蛹】の時期を持たない、言い換えれば、【思春期】を経ずにいきなり【大人】の世界へと放り出されてしまうのがとんぼなのです。勿論これは単なる比喩ですが、そのように捉えた場合、「目的を持たず迷いながら飛んでいる」というイメージはその説得力を非常に強めるのです。
とんぼが登場する楽曲で《蛹のまま僕は暮らしたいよ》と歌うのは、「とんぼには蛹の時期が無いはずでは?」という一つのフックになります。そこから歌詞に込められた意味を考えるならば、【蛹】になれないまま【成虫】になってしまったとんぼの未成熟な内面を、準備が出来ないままモラトリアムを終えて【大人】になってしまった《僕》と重ねる効果があるのだと思います。
アイドルとレジスタンス
22/7の多くの楽曲がそうであったように、この楽曲もまた『大人』やサイレントマジョリティに対する抵抗、反逆心といった感情が描かれているように思います。22/7が初期から提示する『レジスタンス』というキーワードを象徴するような楽曲です。
同じタイミングで学校に通い、卒業し、社会に出て”何者”かとして生きる。大人たちが用意したそのレールは本当に正しいのか。蛹の時期は十分に用意されていたのか。未成熟なままの少年少女を無責任に放り出す、そんな世界になってはいないか。そもそも大人の定義とはなんなのか。成人したら、社会に出たら大人なのか......話が大きくなってしまいましたが、そんな裏テーマも見え隠れする楽曲なのではないかと思いました。
曲調に関しても、当初は大人しめのスローバラードといった印象でしたが、特に後半部分は非常に感情的であり、全体を通して激しい心の抑揚が感じられます。演者が歌っているときの表情や声音など、ライブパフォーマンスも楽しみな楽曲です。
君はMoon
宇宙飛行士になれなかった《僕》
続いては取り上げるのは『君はMoon』です。表題曲である『何もしてあげられない』と同様に、展開中のCD全種類に収録されています。
楽曲の主体である《僕》は少年時代、《月》に想いを馳せて「宇宙飛行士になりたい」と願っていました。《月》は憧れの対象であり、夢や理想とも言い換えられる存在です。
やがて《僕》は『大人』になりますが、《大人になった僕はまだ地球にいるよ》という歌詞の通り、かつての夢は叶うことはありませんでした。夢を諦めてしまった《僕》は、サラリーマンとして忙しい毎日を過ごしています。
《日常のことだけで頭の中いっぱいだった》という歌詞には、心の余裕の無さが如実に現れています。かつての憧れであった《月》への想いは忙しない日常にかき消されており、そんな自分自身への苛立ちも心のどこかに抱えていたのではないでしょうか。
《空なんか見上げず下を向いて歩いた》という歌詞があります。《空》と言うのは要するに《月》を示しています。《月》を見上げることが出来ないのは、上記したように、余裕の無さが理由でしょうが、夢を諦めたという後ろめたさから《月》を直視出来なかったという側面もあるのではないかと考えます。
いずれにしても《僕》は、サラリーマンとして悶々とした日々を過ごしていたことが伺えます。そんな日々に現れたのが《君》だったのです。
《月》への未練と達観
《君》と出会い、恋をしたことで《僕》の心情は大きく変化しています。その最たる変化が、かつての憧れであった《月》との向き合い方だと思います。
《月面には待ってくれてる 生命体はいるのだろうか》という歌詞があります。おそらくそれは、かつての《僕》が実際にこの目で確かめたかったことのはずです。
《夜の空見上げながら いつか一緒に行こうって肩を並べ語った》という歌詞もあります。《一緒に行こう》と言葉からも、これは《僕》がもう一度宇宙飛行士を目指すということではなく、近い将来、科学が発展して《月》に行ける時代が来たときの話をしているのだと思います。
《僕》は宇宙飛行士として《月》の探索をするという夢から”降りて”いて、そこに決着をつけているように見えます。自分の手で成し遂げられずとも誰かが実現してくれる、そんな明るい未来を《僕》は待っています。憧れへの未練を引き摺るのではなく、折り合いをつけて次の世代に任せようという穏やかさと達観がここにあります。それは外面だけでなく内面も『大人』に変化したことを示しているように思います。
いずれにしても重要なのは、《僕》は夢を叶えられなかったかもしれませんが、前向きだということです。そして、それをもたらしたのは言うまでもなく《君》なのです。
《月》よりも輝く《Moon》
憧れた世界である月面。そこに自分が行くという夢が潰えても、思い描いていた"何者”かになれなくとも、かつての夢の残骸である《月》を共に見上げ、想いを馳せられる人が隣にいる。夢を諦めるのではなく折り合いをつけて、幸せに過ごせる。全てを上書きしてくれる、それほどの引力を持っていたのが《君》です。
《君はMoon 僕はEarth》という歌詞は印象的です。実際の《月》に行くことは叶わなかった。それでも《僕のMoon》に出会うことができた。夢や憧れの象徴であった《月》に成り代わり、それ以上に輝きを見せる《僕のMoon》。
《月》までの物理的な距離を乗り越えることは出来なかったかもしれません。しかし、初めは赤の他人だった《君=Moon》と惹かれ合い、心理的な距離を埋めることは出来るのです。
『君はMoon』は、これまでの22/7が半ば悲観的に描いてきた「大人になること」「夢から降りること」に関して、珍しく肯定的に描いた楽曲であるように思います。そして、そんな意識の転換をもたらしたのが《君》だという、恋愛の力をまざまざと見せつけるラブソングでもあるのです。
おわりに
長くなりましたが、『とんぼの気持ち』と『君はMoon』について自身の勝手な解釈を交えて書いてきました。
『大人』という軸で見ると、『とんぼの気持ち』では『大人』になれない主人公の非常に色濃いモラトリアムが描かれており、『君はMoon』では恋をして『大人』へとステップを進めた主人公の逞しさが描かれているように思います。
解釈が異なる点もあるかもしれませんが、こういう見方をする人間も居るんだなくらいに思ってもらえると幸いです(あるいは「自分はこう思う」と意見をぶつけてもらうのも歓迎です)。
それでは、ここまでお読みいただきありがとうございました。
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