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言葉の天才について考える

雑記

俺は思考を整理したいときとか、他人にあまり見せようと思わない文章を書き殴るときとかに使うためのTwitterアカウントを持ってる。当然鍵がかかっていてフォローもフォロワーもゼロ。別にスマホのメモ帳に書いてもいいんだけどこっちの方が幾分捗る。140字で区切ってポンポン投稿出来るのが良いんだと思う。

このアカウントは頻繁に何かしら書いてるときもあれば、一ヶ月二ヶ月放置したりもする。確か三年とか四年くらい前に作った。

で、他人に見せる気が無くて鍵をかけてるしそこに留めてあったけど、別に他人に見せても良いんじゃないかと思い始めた。勿論全部をって訳じゃない。部分的に、少しずつだ。絶対に見せようと思わない文章もある。外に出す際は手直しや校正もする。ただ何を言ってるかの部分は変えない。変えたら意味が無くなる。

最近そうなったのか、最初からそうだったのか分からないけど、書きたいように書いた文章を外に出すっていうのが現状殆ど出来なくなってる。そのアカウントに書いて満足して終わるっていうのがずっと続いてた。たぶん大なり小なり誰だってそういう領域があるはずだと思う。でもそれを内に秘めておくのは勿体ないんじゃないかと思う。

そんな訳で今回少しそこから晒してみる。これはリハビリに近い。少しずつ慣らしていく。晒すのはどうしたって恥ずかしい。特にこういう類の文章は。でも俺はそういうのを見て馬鹿にしたりはしない。だから晒す。たぶん全員適度に晒したほうがいい。でも晒すのは勇気が要る。だからまず俺がやる。

馬鹿にする相手に見つかったらそれはそれで仕方ない。そう思うしかないし、そう思えばどうにかなる。そして馬鹿にしない相手に見つかるのを祈る。衝突を避けようとしすぎてるし、リスクも勝手に大きくしてると思う。敵だらけのように見えるけど意外と味方だったりするかもしれない。

晒した時点でリスクは発生するが、それは単に表面化しただけであって、晒さなければずっと爆弾を抱えてるのと同じ。だったら開示しといた方がたぶんいい。俺が勝手に日和ってるだけで相手からしたら何の問題もないかもしれない。問題があるんなら離れていけばいい。それはそれで仕方ない。それは目を瞑るしかない。そこを我慢できない場合は晒さないほうがいい。

 

変な前書きを書いたけど別に大したことを始める訳じゃないです。

最近、「天才とは何だろう」みたいなことを考える機会があったので、そのTwitterアカウントで色々と書き殴った。その断片をここにまとめて見ようという試み。間違いもあるかもしれない。知識不足が露呈するかもしれない。それはそれで仕方ない。

天才の中でも『言葉』の天才について考えてる。ピカソモーツァルトはみんな天才だって言うけど哲学者や小説家はあんまり天才っぽくない。言葉は芸術に劣るのかってことを考えてる。ちなみにちゃんとした結論には至ってない。

 

俺にとっての天才は、一つには、理解し得ない相手。おそらく彼の定義に同じ。その意味では動物は天才となる。そこで注釈をつけるなら対象を人間に限定してみる。

 

説明されればわかる。言葉でわかる。それは天才か?共感出来る、何を伝えたいのか理解できるということは、理解の外側にはいない。それはさっきの天才の定義からは外れる。『天才』というもの自体何を指すのか曖昧だが。『天才』でなくても別の称号はいくらでもある。

 

おそらく言葉だけで天才になるのは難しい。こちらが理解した気になれるから。理解できる相手は自分の世界の内側に納まる。少なくともそいつの中では。そうなると平凡なやつに見える。聞いて読んでわかったつもりになる、越えたつもりになる。

 

芸術となると話は変わる。言葉と違って正解がない。こうこうこうで、こういうことになる、という論理的説明が効かなくなる。つまり理解することのハードルが上がる。わかった気になれない。言葉は翻訳が出来る。芸術は翻訳が出来ない。

 

この絵はこういうことを示している、ということは出来る。でもそれは決してその絵とイコールじゃない。

 

ここに言葉の弱さというか甘く見られるところがある。では言葉の魔術師は天才ではないのか。そんなことはないはずだ。言葉というツールで概念を具現化する、可視化するという作業が可能になる。それは芸術に近いものがある。芸術を、抽象的なものを翻訳できるのは言葉だけだ。

 

言葉を切り取ればそりゃ理解はできる。でも、頭のなかでいったい何を考えているのか、どういう論理でどういう結論を導きだしているのか。それが予想できなくて、そして恐ろしくなるような相手。それが天才。

 

思い出した。言葉は決して完全じゃない。頭の中に百がある。それを言葉にすればどうしても十がこぼれ落ちる。更に受信の際にまた十がこぼれ落ちる。百が伝わることはない。それなのに受信側はわかった気になる。それが危険なんだ。

 

言葉も絵や音楽と同じ。かなりわかりやすくはなっているが、それでも完全じゃない。不完全で芸術的な表現の一種。

 

発信側だって百から九十を発信するとは限らない。多分意図的にセーブする。言葉はわかりやすいからこそセーブも容易い。ありのままをさらけ出しはしない。彼ですらあの場所が全てでないように。となれば結局最終的には五十くらいしか受け取ってない。それで理解したつもりでいるのは甘すぎる。

 

言葉は借りることが出来る。使い方が簡単だから。そうすると同じ土俵に立った気分になる。錯覚でしかないが、その土俵でしか出てこないような言葉は出せるようになる。

 

 

以上、どうも中途半端なところでこれは終わった。一応結論っぽいのは出てる感じもする。

言葉は結局ツールと捉えていい。文章ってのは言葉っていうツールを使って書いた一つの絵になる。そういう意味でピカソの絵と構造は同じ。

ピカソの頭の中には表現したい『概念』があって、それを絵っていう『媒体』に落とし込んでる。その『媒体』がヤバくて理解の範疇に収まらないから『天才』って呼んでる。『媒体』がヤバければ『概念』もヤバいっていうのは直感でわかる。

じゃあ言葉で書いた文章という絵=『媒体』と、書き手の頭の中にある『概念』の関係を考える。頭の中の『概念』を百として、『媒体』に落とし込んだときにはいくらかが零れ落ちる。言葉は容れ物として小さすぎる。ヤバい言葉っていうのは早々ない。言葉になった時点で分かり易くなきゃいけない。そうじゃなきゃ言葉じゃない。

一つのこと、概念を表すのにも色んな表現がある。その組み合わせは無限にある。だから歌詞があるし小説がある。だから新しい言葉が生まれる。言葉は量で稼ぐしかない。

言葉は使い方が簡単で、わかりやすい。ヤバい『概念』であっても言葉っていう『媒体』に落とすと凡人でも頑張れば何となく分かった気になれるようになる。でもそれは危険だって言った。『媒体』が全てじゃない。『媒体』に落ちてないだけで頭の中にはヤバい『概念』がある。だとすれば天才はいる。

言葉は媒体としては芸術に劣ってるかもしれない。でも言葉を用いてるやつの中にも天才はいる。という謎の結論になった。

 

とりあえず満足はした。特に大した内容ではなかった。後半はTwitterも関係なくなってる。でもTwitterが下敷きであるからこそその後の文章も繋がった。別のところから引用してるっていう意識のおかげでやりやすくなるのかもしれない。

これはまた別で書こうと思うけど、自分の中のそういう欲求というか削り取られた一部部分というか、そういうのをコントロールして飼い慣らすってのが大事だと思う。Twitterの引用した文章は、俺が書いたものだけど、あくまでも今の俺が書いたんじゃないって意識がある。だからこそ多少間違ってそうでもツッコむことが出来るし、やりやすい。あとはそれに飲み込まれないように、乗っ取られないようにこっちの意識を強く持つのが大事になってくる。

 

とりあえず書いたので終わり。後で見返してアレだなと思ったらまあ消せばいい話。インターネットは便利。