『劇場版プロジェクトセカイ 壊れたセカイと歌えないミク』を、公開された2025年1月に鑑賞した。『プロジェクトセカイ』の劇場版ということで、アプリゲームを未履修である自分に楽しめるのか若干不安はあったが、ボーカロイドを通ったことがある人には思い切り刺さる内容になっていたと思う。プロセカはやってないけど過去にボカロはそこそこ聴いていた、そんな自分の視点での本作の感想を書き残しておきたい。
1.「セカイ」と二次創作
「初音 ミク(はつね ミク、HATSUNE MIKU)は、クリプトン・フューチャー・メディアから発売されている音声合成・デスクトップミュージック(DTM)用のボーカル音源、およびそのキャラクター。」(初音ミク - Wikipedia)
上記は初音ミクのWikipadiaの冒頭の文章である。元来、初音ミクはボーカル音源ソフトとして誕生したのであって、特別な人格や物語を有するキャラクターではなかった。数多の作曲家たちは、このボーカル音源ソフトを活用し、ニコニコ動画を代表とする動画サイト通じて“自分の初音ミク”を表現してきた。その楽曲に投影された初音ミクの人格や設定は、いわば二次創作(N次創作)である。
『プロジェクトセカイ』の世界観においても、初音ミクは我々の現実と同様にボーカル音源ソフトとして存在しているようである。創作者の二次創作は「セカイ」という空間で具現化され、創作者がイメージする初音ミクも、異なる姿でそれぞれの「セカイ」に偏在するという設定になっている。各ユニットに異なる姿と人格を持ったミクが存在しており、たとえば「Leo/need」のミクと、「25時、ナイトコードで。」のミクでは、性格も外見もまるで異なっている。
2.「創造力」のセカイに宿るミク
今作でフィーチャーされるミクは、そうした二次創作で表現される“自分の初音ミク”とは異なる。人々が共通して無意識下に所有する「セカイ」に宿った、最大公約数的な共通イメージとしてのミクだ。その無意識がどのようなものとして描かれていたかと言えば、それは「何かに挑戦する・やりたいことをやる・諦めずに貫く」といった、何かしらの活動に対する衝動・情熱・原動力と呼ぶべきものであった。ここで言う活動というのは創作に限らないが、広義の意味での「創造力=Creativity」としておきたい。
これは、初音ミクが人気を博して世界に広がるに至った、奇跡的な創作エネルギーのビッグバン、ボーカロイド現象の爆発力の源泉とも相似である。初音ミク、ボーカロイド文化、更に言えば『劇場版プロジェクトセカイ』という作品自体もまた、「創造力」の連鎖によって生み出されたものだと言っていい。
初音ミクを生み出し、やがて眼前のスクリーンに広がる映像が制作されるまでに至った、奇跡のような「創造力」の連鎖こそが、本作の重要なテーマになっている。そして、万人の心の中に存在するその領域が、人々の最大公約数としての「セカイ」であり、本作のミクが宿る場所として描かれているのである。
3.ボーカロイド文化史との重なり
作中においてこの「創造力のセカイ」は人々のネガティブな感情によって荒廃し、やがて崩壊を迎えてしまう。これに伴い、「創造力のセカイ」の象徴であった初音ミクは現実の世界から完全に消失してしまうほか、各ユニットのミクたちも連れ去られてしまう。
ミクを取り戻すべく、プロジェクトセカイの各ユニットはこの苦境に立ち向かい、奔走する。各ユニットは、ミクの想いを引き継いだ楽曲をそれぞれ完成させ、「創造力のセカイ」の住人のネガティブな感情を晴らしていく。これによってミクも解放され、『ハローセカイ』を歌い上げることで最終的に「創造力のセカイ」は色を取り戻し、住人たちも救われる。
各ユニットには、初音ミク以降の派生ボーカロイドたちが所属している。「創造力のセカイ」の崩壊によって各ユニットのミクが連れ去られる際、派生ボーカロイドたちがミクを助けようとする姿は感動的だ。各ユニットも、派生ボーカロイドたちも、初音ミクという現象から脈々と受け継がれた「創造力」から生み出された「子孫」だと言える。
そんな「子孫」たちが「始祖」であるミクを救い出すべく、まさに「創造力」を駆使しながら試行錯誤する光景は、現実世界のボーカロイド文化史とも重なって、歴史的なダイナミズムとロマンチシズムを感じさせる。すべての原点は初音ミクであり、ボーカロイド文化は初音ミクから始まった。初音ミクが歌えなくなってしまった、消えてしまった世界を肯定することなど出来ない。
ミクの救出に至るまでの筋書きは、文化の担い手たちから初音ミクへの「感謝状」であり「恩返し」であるようにも感じられた。本作に関わる人々が、初音ミクという存在やボーカロイドの歴史に敬意と称賛を示していることを強く感じさせるもので、素晴らしかった。
4. 創造の熱の伝導
本作に関しては「プロジェクトセカイのユーザーに向けたファンムービー(であり、それ以上でも以下でもない)」といった評価も散見される。確かに、ゲーム未プレイの自分としては、次々と現れる登場人物の多さに圧倒されてしまったのは事実である。
しかしむしろ本作は、初音ミクという現象が築いてきた歴史を総括し、祝福し、感謝を告げる作品であったように思う。ボーカロイド文化に触れたことのある全員が、「創造力」の伝導という壮大なロマンチシズムに感動できる、奇跡のような力に満ち溢れていた。単なるアプリゲームのスピンオフに留まらない、ボーカロイド文化の一つの帰結であり、祈りのような作品だった。
初音ミクを生み出した「創造力」の熱は脈々と受け継がれ、やがては映画作品として結実するに至った。この「創造の熱」は観劇した自分にも確かに伝わったように感じる。本作のラストシーン、本来の姿を取り戻した「創造力のセカイ」でミクが放った言葉は、観客の「創造力」に向けられたものだろう。
熱は伝導する。初音ミクという現象自体がその証左ではあったが、本作は作中においてその現象を(子孫への継承という壮大さも交えて)描いたことに加えて、本作自体のエネルギーにおいてもそれを体現してくれたように思う。ボーカロイド文化の大きな潮流を組み込んだ上で、エンターテインメントとしても成立していて、間違いなく傑作だった。
5.初音ミク一次創作の決定版
今作は、最も大規模な初音ミクの一次創作として位置づけられるだろう。初音ミクに公式な人格を与え、ストーリーを付与する取り組みは、『Project DIVA』や『プロジェクトセカイ』といったゲーム・アプリ、あるいは『マジカルミライ』といったコンサートで過去にも行われてきたのかもしれない。しかしここまでの規模と完成度でストーリーを付与された例はなかったのではないだろうか。
全国公開の劇場版でこの大規模な一次創作を実現したことには大きな意味があると思う。従来よりも普遍的な意味で、初音ミクに魂を宿す行いだったと言っていい。数多のN次創作の余白となり、想像力の受け皿となってきた初音ミク。そんな彼女の人格が正式な形で描かれ、そして救いのある結末を迎えたこともまた、非常に喜ばしいポイントだった。
6.関連ページ
筆者が昔書いた、初音ミクに関する研究レポートまがいのもの。本文中に登場させた"ボーカロイド現象"とか"N次創作"とかその辺りの話をしている。
